Out To Lunch

シャルリ・エブド誌襲撃事件と言論の自由

フランスのシャルリ・エブド誌が襲撃されて以来、テロへの怒りとフランスへの哀悼を表わすデモなどの動きが世界各国で広がっているといいます。

マイクを向けられたフランス人は、『言論の自由』への攻撃を嘆きながらも、これには絶対に屈しない、絶対に許さないと強い口調で語っていました。

彼等の深い悲しみと怒りが伝わってきます。世界中の反応もほぼ同じ。「言論や表現の自由」への襲撃には屈しない、屈してはならない、という声が聞こえる一方で、シャルリ・エブド誌の”表現”自体に関する意見がまったく聞こえて来ないことに違和感を覚えるのは私だけでしょうか?

シャルリ・エブド誌の"表現"は、”言論の自由”や”表現の自由”を重んじる表現者なら眉をひそめるタイプの、ほとんど”ヘイト・スピーチ”並みの酷いものだったと思います。イスラム教預言者ムハンマドに対する、事実を一切伴わない誹謗、中傷を繰り返し掲載し、攻撃を受けても「ひざまづくより立って死ぬ」とあくまでも威勢のいい発言を弱めることはありませんでした。エスプリも無ければ思慮も配慮も無い、そうした新聞が獲得できる読者はおおよそ見当がつきます。

だからこそ、もし『言論の自由』,『表現の自由』への攻撃を本当に悲しむなら、「言論」や『表現』そのものについての議論がないのはおかしいと思うのです。そうした声が聞こえてこないなかで、人々はただ「私はシャルリ」というプラカードを掲げて追悼と抗議のデモの列に加わっている....このことは何を物語っているのでしょうか。

さらに言えば、「言論の自由」など教えられることもないまま殺された子供たちが昨年2014年だけでもどれだけいたかと思わずにはいられません。「言論の自由」を守るべきものだと言える先進諸国は、大量の武器を輸出して世界を増々暴力的にしている張本人です。それで自分たちが攻撃されれば怒ったり、悲しんだりする。

国連安保理の常任理事国の五カ国(P5)は世界の武器輸出のビッグ5です。2014年もP5だけで世界の武器輸出総額の8割近くを占めました。

ロシア、アメリカ、中国、フランス、イギリス....P5はこの5カ国です。





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# by kin_midori | 2015-01-12 11:33 | 政治・社会

新年に思う...『伝統』について、『日本』について

2015年ですかぁ.....

これまでもずっと、時の政権に期待をかけたことはなかったし、政治のことを考えると出るのはため息ばかりでしたけれど、安倍さんが二度目の政権をとってからというもの、自分が立っている土台を思いっきり揺すぶられるような、どこにつかまって踏ん張ればいいのか、そんな思いにとらわれています。なので、選挙で”大勝した”、”信任を得た” と本気で思っているらしい安倍さんとそのお仲間がこの先、これまでのやりたい放題をさらに加速させようとするのは間違いないでしょう。そんなことを思いながら迎えた新年ですから、これを言祝ぐ気分にはとてもりませんでした。それでも例年通りお雑煮はいただきました。『伝統』ですから。

伝統行事が目白押しの年末年始、格式ばったことは何もできませんが、それでも暮れにはチョット気合いを入れて掃除もしましたし、年賀状も少し書きました。おいしい黒豆をつまみながら『伝統』について考えたりもしたわけです。

とはいえ....国が『伝統』とか『文化』とか言うのはマに受けない方がいい。昔からそう感じてきましたが、2013年の暮れ、網野善彦さんの『日本論の視座ー列島の社会と国家』を読んで驚いたことがずっと頭から離れないでいます。

特に驚いたのがこの部分。

〜〜例えば、昭和天皇の代替わりに当たって、天皇の葬儀が世の注目を浴び、種々の論議の末、鳥居を建てた神式、巨大な墳丘への土葬などが『伝統的』方式とされ、これが結局実行に移されたことは、その適例であろう。すでにフランソワ・マセも言及しているように、この『前例』は明治天皇以前に遡るものではなく、聖武以来、孝明まで一貫して仏式、持統から江戸初期まで2、3の例外を除いて火葬、後光明以来、表向きは火葬で実際は土葬、葬所は仏式採用後は適当な寺院の近傍、後光厳以後、後花園のみを例外として葬儀はすべて泉涌(せんにゅう)寺、墳丘をつくらぬ薄葬も持統以来のことで、淳和(じゅんな)にいたっては火葬に付した遺骨を粉砕して散布させたなど、天皇の葬儀にまつわる歴史的事実は、多くの人々に知られることのないまま、『伝統的』という言葉がまかり通ったのである。〜〜(「日本論の視座ー列島の社会と国家」2004年・小学館/序章より)

『日本』に生まれ、『日本』で育ち、教育を受けてきた私たち。それなのに『日本』のことは正しく教えられていない。今そのことを強く感じています。
私の家の近くには弥生時代の遺跡がありますが、市の案内に『弥生時代の日本人』云々と書かれていても別段おかしいとも感じることもなく過ごしてきたものです。でも網野善彦さんの言われるように、『日本』という国号が用いられる以前には当然ながら『日本人』はいないわけで、『天皇』という称号も『日本』が正式に用いられるようになったのと同じ頃のことのようです。とすれば2月11日の建国記念日は戦前の紀元節(1872年、明治5年制定)、つまり神武天皇の即位の日というまったく架空の日がそのまま『建国記念の日』と定められた、ということになります。

1966年、この日が祝日法の改正によって国民の祝日と定められたその趣旨は『建国をしのび、国を愛する心を養う』ということ。でも建国といってもそれは”神話”に過ぎないわけで、民主主義国家が神話でしのぶ『建国』って何?って思います。

戦争を始めた戦前の思想、発想が『国を愛する心を養う』というロジックで戦後70年間にわたって、そうした戦前の思想,発想に徐々に国民を馴らし、抵抗感を薄れさせてきたとは言えないでしょうか。
1999年、日の丸が国旗に・君が代が国歌と定められたのも大きいですね。当時の小渕恵三首相は『国旗・国歌の指導は国民として必要な基本的、基礎的な内容を身につけることを目的として行われる』ものだと言っています。
では国民として必要な基本的、基礎的な内容とはどのようなものなのでしょう?

別の本で網野善彦さんが書いていることを見てみましょう。
〜〜文部省が日本国にとって決定的な意味を持つ国号の確定の事実とその時期を国民に教えようとしないのかについて、それを明らかにすることは『建国記念の日』の虚偽を明確にする結果になるのを恐れて、意識的に隠蔽していると見ることも出来る。またこの国号が支配者によって定められたことを明らかにすると、将来、人の力によって,国民の意志でこれを変えることもできるという点が明瞭になるのを嫌ったと考えることもできよう。とするとこれはきわめて意図的で悪質ということになるが、実際は文部省の当局者自身、『日本』という国号があたかも天から降って来たように、古くからいつのまにかきまっているという曖昧模糊たる認識にいまも実際に留まっているのではないかと思われる。
 その結果、現代日本人のほとんどが自らの国の名前が、いつ、いかなる意味できまったのかを知らないという、世界の諸国民の中でもきわめて珍妙な事態が現在も続いていることは間違いない~~(講談社、2000年10月発行、『日本の歴史』第一回配本「『日本』とは何か」2:「日本人の自己認識ーその現状」より)

確かにそのとおりですね。私たちが教えられず、考えもせずにきてしまった...その結果が今日生じている様々な問題と直接繋がっている、そう思われてなりません。

上の2冊を読んで、最晩年の網野善彦さんの、まるで魂から絞り出されたお声を聴いているような気持ちになりました。歴史家としてこれだけは言い残しておかなければならないという、切実な思いが痛いほど伝わってきます。

明日からはもう普段通り。とんでもない矢が飛んでこないように祈るばかりです。





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# by kin_midori | 2015-01-04 17:29 | 歴史・伝統・文化 etc

いかにも

高橋源一郎さんのツイッターを読み出したら止められなくなってしまいました。

ここでは紹介しきれないほど重みをもったツイートが、まるでエンドレスかと思うくらい次から次と出てくるんです。


恫喝して反対意見の人を黙らせる。このところ、そんなやりかたで自分の主張を通そうとする人たちが多いような気がしませんか? その点高橋さんの語り口にはホッとします。多分わたし「右か左か」、みたいな単純すぎる議論にうんざりしているんでしょうね。

といってもまぁ高橋源一郎さんですから、語る内容自体は重くても、語り口はあくまでも軽快。所々にはお子さんたちの楽しいエピソードも添えられていて、ずっと読んでいても飽きないんです。全然やることがないわけではないので、それはそれで困るんですけどね。

ということで、奥さんのお友達の子供(小学生)のエピソードを一つ。

.....国語のテストで『いかにも』ということばを使ってぶんしょうをつくりなさい,という問題が出たとき、「いかにもたこにもきゅうばんがある」と回答した、と聞いて感銘を受けました。......

グッジョブ!!(笑)


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# by kin_midori | 2014-12-18 17:19 | 受け売り

動物は先生

猫と暮らすようになってもう四半世紀以上になります。

この間に出逢い共に暮らした猫は短気長期あわせて6匹。

たとえ哺乳瓶から育てた猫であっても、わたしにとってはみな先生でした。

お皿からミルクも飲めない子猫が、持って生まれた本能や感覚だけを頼りに必至で生きようとしていました。ほんとうに身ひとつで。飼い主が差し出した食べものでさえすぐには食べようとしません。目で確かめ、鼻で慎重にくんくん。納得が行くまで充分にチェックをし、安全を確認したうえでなければ食べないのです。

かれらにとっては自分の五感だけが頼りなのですね。それがセンサーだったりカーナビだったりだから。

自分をふくめて人間に目を転じると、わたしたちは備わっていたはずの感覚を鈍らせることしかしていないように見えます。これはからり危ないことではないでしょうか。

わたしができるだけ猫やその他の動物たちを見習って生きようとおもったのはそんな理由からです。

人生の先生は動物たち。

昨日も今日も日本列島は大荒れです。寒がりのわたしはカッコ悪く着膨れて恥ずかしい限り。それにひきかえ、サギはむき出しの細〜い足にゴム長も履かずに餌を探しているんですよ。スゴくないですかぁ?

動物たちはツベコベ言いません。潔いです。
なかなか真似できないなぁ....

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# by kin_midori | 2014-12-18 11:04 | 動物・いのち



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